★★★ 老浪学のススメ ★★★
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◆はじめに
 最初に考えたのが「老○学」、すぐ「老朗学」が頭に浮かんだ。ことばの響きが気に入った。語呂合わせで、「朗々学」「浪々学」「老々学」「老浪学」など もある。「浪」には少し迷いが入っている、そこがいい漢字(感じ)なので、最初は「老浪学」ってことにしておこうっと。
 しかし、時間が経つにつれて気分は変わるもの。2009年
「老浪学研究室」で発足だが、年ごと に気分でいろいろ変えてみることにした。今年2012年の気分は、えーと「老々学研究室」にします。
 本研究室の目的は、リタイアした老爺が元気に毎日を過ごすために必要なこと。それに関連した思いを記すことにしたい。この趣旨は変えない。変えるのは名 前だけ。(何の意味があるのかなんて聞かないで)

◆失態学から老朗学へ
 
どこかの大先生の提唱した「失敗学」が流行語だった頃、個人的趣味から「失態学研究室」を 開設した。今(2009年9月)Google、Yahooで「失態学」と検索するとこのHPがヒットするので言い出しっぺのお墨付きってことかな。
 しかし、「失敗学」から「失態学」はすぐ連想できるので言葉としての独創性に乏しい。それに比べて、この「老々学」「老浪学」は自分の思いからにじみ出 てきた名称なので独創的、ちょっとうれしい。

◆新しい憲法の話  文部省

「憲法制定当時の文部省の戦争放棄に関する説明」

 みなさんの中には、こんどの戰爭に、おとうさんやにいさんを送りだされた人も多いでしょう。ごぶじにおかえりになったでしょうか。それともとう/\おかえりにならなかったでしょうか。また、くうしゅうで、家やうちの人を、なくされた人も多いでしょう。いまやっと戰爭はおわりました。二度とこんなおそろしい、かなしい思いをしたくないと思いませんか。こんな戰爭をして、日本の國はどんな利益があったでしょうか。何もありません。たゞ、おそろしい、かなしいことが、たくさんおこっただけではありませんか。戰爭は人間をほろぼすことです。世の中のよいものをこわすことです。だから、こんどの戰爭をしかけた國には、大きな責任があるといわなければなりません。このまえの世界戰爭のあとでも、もう戰爭は二度とやるまいと、多くの國々ではいろ/\考えましたが、またこんな大戰爭をおこしてしまったのは、まことに残念なことではありませんか。

そこでこんどの憲法では、日本の國が、けっして二度と戰爭をしないように、二つのことをきめました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戰爭をするためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戰力の放棄といいます。「放棄」とは「すててしまう」ということです。しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの國よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。

もう一つは、よその國と爭いごとがおこったとき、けっして戰爭によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとおそうとしないということをきめたのです。おだやかにそうだんをして、きまりをつけようというのです。なぜならば、いくさをしかけることは、けっきょく、じぶんの國をほろぼすようなはめになるからです。また、戰爭とまでゆかずとも、國の力で、相手をおどすようなことは、いっさいしないことにきめたのです。これを戰爭の放棄というのです。そうしてよその國となかよくして、世界中の國が、よい友だちになってくれるようにすれば、日本の國は、さかえてゆけるのです。

みなさん、あのおそろしい戰爭が、二度とおこらないように、また戰爭を二度とおこさないようにいたしましょう。

◆終活:井上陽水の歌に癒やされたい

「勝者としてのペガサス」

おそらく決まりはないが
一言あなたに言おう
楽しいよ罪のないことは

どこまで
見果てぬ夢か
何かをかけてもいいが
悲しいよ敗れ去ることは

ーーーー、、、、、

ーーー私の遺体が、焼かれる時に流して欲しい。
https://www.youtube.com/watch?v=pL1wtqSrr-w

 

「積荷のない船」

積み荷もなく行くあの船は
海に沈む途中

港に住む人々に
深い夜を思わせて

間に合えば 夏の夜の最後に
遅れたら 昨日までの思い出に

ーーー、、、、、

ーーー私が灰になって何処かに埋葬される前に流して欲しい。
https://www.youtube.com/watch?v=m07Ri1t7sIA

 

これらの歌詞の意味について、部分的に納得しながらも、よく分からないままに聴いてきた。ある時ネットでこんな記事を見てそーかと納得した。

 

ーーーボブ・ディランを胸に抱いて、井上陽水は「ノーベル賞」を歌ったーーー

アメリカのシンガーソングライター、ボブ・ディランが今年のノーベル文学賞に選ばれた。
スウェーデン・アカデミーが授賞を発表したのは、現地時間で10月13日午後1時(日本時間同日午後8時)。そのとき、ディランがコンサートを行なうため滞在していた米ラスベガスは午前4時だった。アカデミーは発表から約2時間半後にツアーマネージャーの連絡先を入手したものの、先方は「寝ている」として直接は話せなかったという。まあ、そのときでもラスベガスはまだ朝6時半だから、寝ていてもおかしくはないだろう。

海老沢泰久『満月 空に満月』(文春文庫、2003年)。井上陽水の少年時代からブレイクするまでをたどったノンフィクション。なお著書の海老沢(故人)は、陽水とはかつてタモリを交えて「人望のない会」や「携帯電話を持たない会」を結成するなど交友があった

ただし、13日夜のコンサートでもディランは、観客から大喝采で迎えられながらも、ノーベル賞については一切コメントすることなくすぐピアノ演奏に入ったという。さらにその後の報道では、発表から丸1日が経過した時点でもまだ、アカデミー側はディラン本人と直接連絡がとれていないとも伝えられる。おかげで「彼はノーベル賞を受け取りたくないのではないか」とまでささやかれ始めている。

これはあくまで憶測にすぎないが、ディランとしてみれば、ひょっとするとノーベル賞を受賞することで、平穏な生活を掻き乱されてはかなわないという思いがあるのかもしれない。1966年にバイク事故で重傷を負ったディランは、静養のためニューヨーク州のウッドストック近郊に新居を構えたものの、やがて不法侵入者があいつぎ、緊張しながらの生活を余儀なくされている。ちなみに、有名な1969年夏のウッドストック・フェスティバルは、実際にはウッドストックからかなり離れた農場で開かれたが、このときもディランは用心して、イギリスでのフェスティバル出演を口実にアメリカを離れた(中山康樹『ロックの歴史』講談社現代新書)。

ーディランの影響から生まれた意味不明な歌詞ー

さて、ボブ・ディランは当然ながら日本のミュージシャンにも大きな影響を与えているわけだが、それは具体的にはどんなものなのか。せっかくなので、井上陽水を例に説明してみたい。

井上陽水は1973年、アルバム『氷の世界』をリリースした。アルバムレコードでは日本初となる100万枚の売り上げを達成した記念碑的な作品だ。本作により、陽水は25歳にして自らの音楽的世界を確立したといっていい。その制作にあたって、彼に重要なインスパイアを与えたのが、ボブ・ディランだった。これについては、作家の海老沢泰久によるノンフィクション『満月 空に満月』(文春文庫)にくわしく書かれている。

陽水は中学時代よりビートルズにあこがれ、ビートルズのようなかっこいい曲をつくろうと考え、そうしてきた。しかし、歌詞についてはどういうふうにすれば自分らしいものが書けるのか、まだその方法を完全につかんではいなかった。そこで陽水が参考にしたのがボブ・ディランだった。もちろんそれ以前から彼はディランを聴いてはいた。だがある日、シンガーソングライターの先輩である小室等の家に行ったとき、たまには真面目に聴いてみようと、歌詞カードを見ながら聴くことにしたのである。

このとき、陽水の心をとらえたのが、アルバム『Blonde on Blonde』(1966年)に収録された「Just Like a Woman(いかにも女らしく)」という曲だった。それを聴いて、陽水はほとんど一瞬のうちにすべてがわかったという。

原詩をそのまま書き写すとおそらく著作権的に差支えがあるだろうから、ここは片桐ユズルによる和訳を引用すると、それはこんな歌詞だった。

だれも苦しみを感じない
今夜こうして雨の中に立っていても
だれでもしっている
ベビーがあたらしい服をもらったことを
でもちかごろ そのリボンが
巻毛からおちてるじゃないの
いかにも女らしく取るじゃない、ほんとに
いかにも女らしく股をひろげるじゃないの、ほんとだよ
いかにも女らしく苦しむじゃないの
でも ちいさな女の子のようにもろいんだね

陽水はまず「だれも苦しみを感じない(Nobody feels any pain)」という、彼いわく《わけの分からないはいり方》にしびれたという。さらに最後の4行の歌詞に、《その終わり方がまたきまったなあという感じ》を抱いたと語っている(海老沢、前掲書。以下、断りのないかぎり引用はすべて同書による)。

そこで陽水が気づいたのは、「いかにも女らしく取るじゃない(She takes just like a woman)」にいたるまでの最初の6行は、何を言ってもいいんだということだった。

《とにかくそこまでの一行一行は、何かインパクトのある、Nobody feels any painとか何とかわけの分からないことをいっておけばよくて、むしろそこまでに意味のないことをいっておけばおくほど最後の四行が生きる。逆にいうと、あんまり最後の四行に関係のあることを前でいっちゃうと説明的になってつまらなくなっちゃう。それが分かって、そうか、こういうふうに書けばいいのかと思ったわけよ》

これにインスパイアされて陽水がつくったのが、アルバムの表題曲となる「氷の世界」だった。

そこでは出だしから、窓の外にリンゴ売りなる謎の人物が現れたかと思えば、「誰かがふざけてリンゴ売りのまねをしている」とあっさり否定される。その後も意味不明な歌詞が続くものの、それも最後の「毎日、吹雪、吹雪 氷の世界」を生かすための前フリにすぎない。陽水に言わせれば《その言葉がありさえすれば、あとはもう窓の外でリンゴを売ろうがキュウリを売ろうが何でもいいんだと思ってたよ》。

何だか適当だが、それでいて陽水は、《詞の前半が適当であればあるほど、現代の寒々とした光景がよりいっそうあざやかに浮かび上がるのだという確信をもっていた》という。それも、ボブ・ディランの法則にしたがったものだった(ただし、陽水はこの時点で、ディランのいまひとつの特徴である、韻を踏んだ詩を完成させるまでにはいたらなかった)。

陽水は「氷の世界」を書き上げると、自信たっぷりに、当時彼を売り出すため尽力していたポリドール・レコードのディレクター多賀英典に見せた。しかしこれには、それまで陽水がどれだけユニークな詞を書いても評価を示してきた多賀でさえ理解不能であったらしい。それでも陽水は《多賀さん、たまにはぼくのものも食べてくださいよ》という独特の言い方で、相手を納得させてしまう。アルバムのタイトルもそこで『氷の世界』と決まった。

ーノーベル賞発表前夜、陽水がディランをカバー

もともとディランは、日本ではその知名度ほどにはレコードは売れていなかったという。ラジオDJのピーター・バラカンはこれについて《歌詞の難しさや、きれいな歌い方を好む日本人にはいまひとつなじまない、あの歌い方そのものが主な原因でしょう》と書いている(『ラジオのこちら側で』岩波新書)。

ディランには、代表曲である「風に吹かれて(Blowin' in the Wind)」(1962年)や「ライク・ア・ローリング・ストーン(Like a Rolling Stone)」(1965年)などシンプルな歌詞で広く親しまれている曲がある一方で、前出の「Just Like a Woman」のように難解な歌も多い。『タランチュラ』という最初の著作(1966年)にしても、詩のような物語のような謎めいた、それでいて不思議な魅力のある48篇の散文をまとめたものだった。そこには、たとえばこんな文章が出てくる。

《エイブラハムここの明かりのなかへおいで……きみのボスはどうなのかね、言われたことをただやっているだけなんて言わないでくれ! きみの象形言語にぼくはつうじてはいないかもしれないけれどぼくは平和にやるのだ。

(中略)ちょっとした情報と交換に、ぼくのファッツ・ドミノのレコードをきみにあげよう、hisとhersのタオルを何枚か、それにきみ専用のプライベート・セレクタリー……おいで》(ボブ・ディラン『タランチュラ』片岡義男訳、KADOKAWA)

ディランが日本のヒットチャートで健闘するようになったのは、1976年発表のアルバム。『欲望』あたりからのようだ。陽水はディランに学びつつ、彼に先んじて日本のマーケットで成功を収めたことになる。

そういえば、「氷の世界」には、「人を傷つけたくても、実際にはそれができないやさしさを胸に抱いている人は、いつかノーベル賞でももらうつもりで頑張っているのではないか」といった、これまた、わけのわかったようなわからない歌詞が出てきた。さしもの陽水も、まさかインスパイア元であるディランが、ノーベル賞に選ばれるとは夢にも思わなかったことだろう。

なお陽水は、ノーベル文学賞の発表前夜、渋谷Bunkamura オーチャードホールでコンサートを行なっている。このとき、ディランの思い出を語りながら、彼の「Knockin' on Heaven's Door(天国の扉)」のカバーも披露したという。これが翌日か翌々日なら、今回の授賞へのコメントもあったのだろうか。いや、食わせ者の陽水のことだから、案外まったく触れなかったかもしれないけれども。

ー近藤正高ー
ライター。1976年生まれ。エキレビ!では歴史・科学からドラマ・アイドルまで手広く執筆。著書に『タモリと戦後ニッポン』(講談社現代新書)など。愛知県在住。

 

◆老人は何のために生きているのだろう
 生きてること自体が地球温暖化、自然破壊に通じているんだから、絶望的になっちゃうよ。しかし、なにか意味があるはず。

◆種の保存
 「子供を産み育てる」ことを「種の保存」という。となれば、その役割を終えた老人には、その観点から生きて行く意味があるのか、ないのか。ある日、うち のPC教室の生徒さんから「孫の世話」はまさに「種の保存」に通じる、という話を聞いて多いに元気づけられた。目からウロコ。ヨーするに老人は子供と遊ぶ 材料をたーくさん持っていて、一緒に遊んであげれば、それでいいのだ。矛盾してないよね。
 草玩具、折り紙、竹トンボ、布ぞうり、少しは役に立ちそー 。

◆宗教
 イスラム教はなんとなく怖い。イスラム圏は争い事が多い。年を取って争い事がいやになった。時にキリスト教の医療奉仕団の話を聞く。あまりにもボラン ティアすぎる。押しつけがましい。

 基本的に神を絶対視するイスラム教、キリスト教に私は違和感を覚える。すぐ、神様のせいにする。神様のために他人を殺していいはずないでしょ。妄信は他 人を排除する。私は信じる宗教をもたないが、敢えて自分の信条に近い宗教といえば仏教である。攻撃性がないところがおおいに気に入っている。お葬式でお世 話になるからではない。

◆ボランティア
 生貧乏育ちのせいか、ボランティアという言葉に反感をもっている。

  道徳のない経済は犯罪である。経済のない道徳は寝言である(二宮尊徳)。私はこの言葉が好きだ。

  アメリカ勃発の金融危機はまさに道徳のない経済がもたらしたものだ。うしろの方は、お金の発生しない(経済のない)ボランティア(道徳)は寝言である、と 勝手に解釈している

 多摩六都科学館にボランティアということで週1通っている。草玩具を作ったり、折り紙をして、子供たちと遊んでいる。名称はボランティアだが全くそんな 意識はない。自分が好きなことをやって子供たちと一緒に遊んでいるのが楽しいからだ。無償で労働を提供している(=ボランティア)なんて、これっぽっちも 思っていない。
 しかし、科学館は少しでもお金を払った方がいいと思う。その方が責任感を出てくる。私もお金が介在しない分完全無責任、別件があればそちらを優先する し、館内でも自分がやりたいことしかやらない。

◆遠大なる計画(「家族、、、」エッセイ募集に投稿するも外れ)
 ひとり息子だ。子育ては楽しかった。会社から帰ると「おとーさん、おとーさん」とへばりついてきて、とても愛おしい存在だった。落ち葉が敷き詰められた 山道を歩いて「葉っぱの川だ〜」と、はしゃぐ幼子を目にして、感性豊かな芸術家になれるのではないかと思った。私が教えたのだが、「キョーシン(共振)、 キョーシン!」と体を揺らしながらお風呂のお湯を溢れさせた時は思わずオレに似て理系、もしかすると大科学者になれるかもと思った。

 しかし、小、中学校と進むにつれ、成績もその他大勢組、普通の人となって少し私を落胆させた。

 地元の公立高校にはなんとか入学できたものの、成績は最低に近かった。「義務教育ではないので勉強するのがいやなら、やめて働いたら」とは成績表を貰っ てくる度に言った。でも、彼はやめることなく3年生になった。卒業を前にした冬1月、学校に出向き、「この成績では落第点ではないでしょうか、その場合は 留年させて下さい」と担任の先生に頼みに行ったりした。

 結局、先生の温情の追試で何とか卒業できたようだ。しかし、彼は就職活動を一切しなかった。どうするつもりだ。このまま家に隠って無為徒食を許すことは できない。彼には家を出て自活するようにと言い渡した。

 カミさんが彼のために下宿を一緒に探したり、生活用具を揃えるのを手伝ったようだが、私は全く感知しなかった。
 今になって思えば、彼にとって当時の私の言動、行動がどう映ったかを考えると忸怩たる思いがある。彼には「なにくそー」という気持ちになって欲しかった のだが。

 自活するにはお金がいる。自分で医療関連試料の集配のアルバイトを始め、まじめに取り組んだようで正式入社を勧められたりもしたようだ。しかし、大学生 活を楽しんでいる友人と自分の立場に違和感を覚えたらしい。3年後、大学を受けたいと言い出した。もちろん賛成した。

 1年間受験勉強をして大学に合格した。地方の大学だったので、カミさんはたびたび息子を訪ねたが、わたしはどうしても彼の住まいを訪ねる気にはなれな かった。そんな思いを持ちながら、大学卒業まで4年という月日は瞬く間に過ぎた。

 学生生活は楽しかったようで、大学院に行きたいと言う。私が日頃思っていたことの意向を汲んでくれたようでありがたかった。諸手を上げて賛成である。

 私は、昨年夏、学生時代勇気がなくて実行できずにいた「自転車による日本縦断の旅」を決行した。旅の終わり近く、帰京までの道筋、息子のアパートに連泊 した。息子が手作りの料理をふるまってくれた。私はとてもうれしかった。そしてこの訪問は意図したものではなかったのに、この瞬間をずっと心待ちにしてい る自分に気がついた。

 夕食時、カミさんがポツリと言った。「遠大なる計画が実行できて、良かったわね。」

◆コーヒー(「コーヒー」関連エッセイ募集に応募するも外れ)
 毎朝6時半、朝食を済ませ、妻が家を出る。近くの公園で太極拳を教えているらしい。ひとりで朝食の後、片付けを済ませ、二人分のコーヒーを入れるのが私 の日課である。1時間程して帰ってきた妻と二人、コーヒーを飲みながら話すのは、いま奈良で学生生活を送っている息子のこと、最近のTVのニュース、属し ているサークルやボランティア団体のことなど、など。このコーヒータイムが二人にとって最も濃密な時間である。

 妻は「健康を維持するため」、「先々、ぼけないため」と称して行動する人。私は「いま、健康だから」、「いま頭は働くのだから」それをどう使うかの方が 大事なのさと、うそぶく怠惰な人。二人の考え方は微妙に違うが、それが会話を楽しくさせていると私は勝手に解釈している。

 朗読奉仕の会、街案内のボランティア、国際交流の会など体と頭を使うべく、毎日が忙しい妻。私はもっぱら家のパソコンでインターネット三昧、出かけるの は一週間に一度の科学館でのボランティア活動だけである。

 このように動かずの私だが、数日後には、海外2週間のショートステイの一人旅。さらには、6回目の四国歩き遍路も考えている。「健康だからできること」 をやる。昨年の自転車日本縦断の旅では長期に家を留守にした。申し訳ない。

 とはいえ、二人旅はもっと、もっと楽しい。今年の夏は一緒に海外長期旅行を計画している。役割分担は明確だ。行く先々でのホテル探し、観光情報収集など など行動の人である妻の守備範囲は広い。私の役目は首を振るだけの用心棒。

 いつも美味しい夕食をありがとう。二人で後片付けを済ませ、さあ、夕食の後のコーヒータイムだ。コーヒーを入れるのは私の役目。炒れたてのコーヒーに 「ちょっと、酸味が強くない?」という私に、「あなたが選んだ、お薦めブレンドよ」と妻のセリフ。「私はおいしいわ。」そう、分かっているのさ、君の好み はミルク多め。さあ、おいしいコーヒーを味わいながら、旅行計画をじっくり話そう。

◆18才未満は席に座るな
 電車内では、18才未満は椅子に座るべきではない、座らせるべきではない。いくら疲れていてもだ。歩ける位の年齢になったら、ぐずっても親は絶対に座ら せるな。自分は息子にそう接してきた。ましてや、育ち盛りの学生どもが座ろうなどと思うこと自体が甘えである。彼らの健康上からもその方がいいし、体力的 にも全く問題ない。その時倒れる程疲れていても、彼らの疲労回復は早い。席は基本的に一生懸命働いている勤労者と高齢者が最優先されるべきだ。

 若者がシルバーシートに堂々と座っていたり、タヌキ寝入りしているのは、すべてこれ親と孫甘やかしの爺婆の責任だ。電車で長時間立たされた記憶のある子 供は、決してシルバーシートで寝た振りなどしないものである。

◆「あらたにす」(http://allatanys.jp/)に失望
「あらたにす(日経・朝日・読売)」には、日替わりで新聞案内人の記事が載る。

【吉井妙子氏(スポーツジャーナリスト)のコラム】
「一流選手の人格を育む母親の存在」(2009年10月22日)(内容抜粋)

○石川遼の礼儀正しさと母の気遣い
 このところ、ゴルフの石川遼が活躍するのに比例するように、父親が各種メディアでクローズアップされている。確かに、18歳にしてトッププロと称される までに導いたのは、父親の指導の賜物だろう。しかし、あの爽やかさ、腰の低さは、父親というよりはむしろ、母親から学んだものではないかと思ったことが あった。
 あるパーティで石川の母親と会った。母は、試合でそのパーティに出席できない石川の代理として顔を見せたのだが、始終、楚々として奥ゆかしく、目立たな いように目立たないようにと周りに気を遣っていた。そんな姿を見ながら、石川の礼儀正しさは、家庭内での母親の言動に大きく影響されているなと確信したの である。

○「世界で闘う17年」を支えた杉山愛の母
 芙紗子さんは、たとえ娘でも導くことはしない。子供の頃から、自分で考え判断し、行動することを娘にさせてきたからだ。だが、娘のツアーに同行したのは 理由があった。  「毎日必要とされなくてもいいんです。ただ、本当に必要とされているときに、適切な行動をしたり的確なアドバイスをしたりしてやるためには、いつも見て いないと分からない。もし、50日一緒にいて1日でも私を必要としてくれれば、他の49日は無駄じゃない」

  愛さんは現役生活を一片の悔いもなくやり切った。だからこそ、引退記者会見では、雲ひとつない秋晴れのような澄み切った笑顔を見せた。しかし、会見の最後 に母から「よく頑張ったじゃない。もう、頑張らなくてもいいよ」と声をかけられ、大粒の涙を流した。


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を読んで、ことさら母親の存在を強調するので男としての私は違和感を覚えて、下記の感想のコメントを投稿した。これは採用された。
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 私は一児(現大学生)の父親であるが、今回の案内人の見解に一種の違和感を覚える。

 石川遼氏の礼儀正しさは、逆にトップレベルでの競いの場面で弱さにつながるとも考えている。杉山愛氏に対する母親のコーチとしての甘さが、彼女が先に進 めなかった原因かもしれない。

 遺伝的には、父親的な人格、母親的な人格を受け継いでいる「彼、彼女ら」がその遺伝的資質をどう自分の人格形成に生かしていくか、それは、彼自身、彼女 自身の資質にかかっている。母親、父親の人格とは無関係に、立派な人格の一流アスリートもいる。基本は彼、彼女自身の両親から受け継いだ資質を「彼、彼女 ら」がどう自分の選手生活に生かしていくかの過程で、その人格が形成されていくものと思っている。

 そういう意味で、ことさらに母親、父親の人格を拡大解釈すべきではない。

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【吉井妙子氏(スポーツジャーナリスト)のコラム】
「清水宏保コラムと記者のため息」2010年03月05日(内容抜粋)


 3紙の五輪紙面を見るたびに、現地記者の苦労を思った。現場を知らなければ、あまり特色がないと生意気なことも言えるが、私はその行間に、記者たちのた め息を感じざるを得なかったのである。

 そんな五輪報道で突出していたのが、読売、朝日両紙に載った清水宏保さんのコラムである。そもそも、1人の人間を読売、朝日が同時に起用すること自体、 前代未聞だ。それだけ五輪のコラムに欲しい人材だったという裏返しでもあるが、両紙の英断にたがわず、メッセージ性の高いコラムだった。

 例えば、スピードスケート500mで長島圭一郎が銀、加藤条治が銅を獲得した翌日に朝日新聞に載ったコラム。「条治よ、悔しかったか」というタイトル で、加藤の練習の少なさを指摘した。そしてこう続ける。

 「僕は君に言われたことがある。『清水さん、あんな辛いトレーニングをしなきゃならないなら、僕はスケートを止めます。楽して金メダルを獲りたいです ね』。僕の練習ドキュメンタリーを見ての感想だった。僕は心肺機能を高めるために失神寸前まで自分を追い込むトレーニングをしてきた。それに対しての反応 だった。腹も立たなかった。失礼だとも思わなかった。ある意味で、君は天才だから。コーナリングは僕が教えを請うほどの能力を持っていた」

 最後にはこう結ぶ。「銅メダルで満足していないはずの君だから、言う。4年後金メダルを手にするには練習方法の変更が必要だ。栄光のメダリストに対し て、敢えて厳しく書いたことを許して欲しい」
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五輪から帰国した清水さんに先日会った。連日鋭い論陣を張った清水さんだが、それでも今回、メディアの人たちの仕事ぶりには頭が下がったと言った。

 「僕は新聞のほかにテレビの仕事もさせていただいたのですが、ほとんどの人が17日間、不眠不休だったと思います。例えばスピードスケートは午後4時か ら始まるのに、日本人メディアは午前8時には会場に来ていました。そして試合後に選手のコメントを取り、テレビの人は中継の様子を編集し、新聞の人は記事 を書いて送る。彼らが寝ている姿は想定でませんでしたね」

 清水さんはそんな現場に立ち会い、選手時代に自分はなんてことをしてしまったんだろうと深く反省した、と頭をかく。

 「僕はミックスゾーンでほとんど喋らなかったですからね。報道陣は1日の大半を会場に詰めているのに、選手のコメントを取れなかったら仕事にならない。 今回、伝える側に立ってみて、かつての自分の愚かさに青ざめてしまいました。皆さん、本当にスイマセンでした、って」


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やっぱり、この記事にも違和感を覚えて、私は下記の感想のコメントを送った。
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 吉井氏のコラムにはいつも何か引っかかるものがある。今回、清水宏保氏のコメントに「吉井氏の思い」を乗せているが、それは少し違うと思う。

  練習方法も技術革新があってしかるべきで、清水氏の自分を追い詰めるやり方が王道ではない。このコメントは、結果論としてのコメントでしかない。

皮肉な言い方をすれば、今回もし加藤氏が金メダルを取っていればこのコメントはなかったはずだ。再度レースをすれば順位変化もありえるわけで、今回のレー スにおける、金、銀、銅メダルには紙一重の差もないはず、私は時の運であると思っている。

  選手の取材に対する清水氏のコメントも同じである。選手は競技に集中している。終わったからといってその集中が瞬時に解けるものではない。つっけんどんで 当たり前なのである。これはひとえに取材側に責任があるわけで、その状態でもコメントを引き出すための術を備えなければプロ記者といえないのではないか。

  親子の関係に似て、子は親を困らせるが(選手は記者を困らせるが)あとで子は親になった時その恩を知る(選手が記者の立場になって初めて記者の思いが分か る)のである。物わかりのいい子(選手)がいてもいいが、親(記者)は過度にそれを期待しない方がいいとは思いませんか。

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 若干批判的コメントではあるが、彼女を誹謗中傷した内容ではないと思っ ている。一度投稿し、採用されなかったので、再度投稿したがボツ。残念無念。
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 吉井氏に批判的なコメントが2度続いたのでボツにされたのかもしれない。ちょっと「あらたにす」には失望した。同じ時期に投稿した、
  下記の感想文は採用された。もちろん、本音です
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 安井氏のコラムはいつ読んでも面白い。いろいろな読者から。異論、反論もあるがそれもまた面白い。

  ただ、異論、反論にも礼儀はあると思う。

  私は理系の仕事であったが、若い研究者がある提案をするとそのダメな理由を滔々とのべる古手研究者を間近にみてきた。もちろん知識豊富な古手研究者相手に 若い研究者はしどろもどろになる。こういう状況を苦々しい思いで眺めてきた。

  今になって強く思うことは、「反論した古手研究者は最終的に礼儀として対案、提案なるものを彼に提供する礼儀(義務)がある」ということである。極論すれ ば、反論、異論を唱えるだけならだれでもできる。その後、どうすればより良いのかを提言して初めて、議論の質が高まると思うのである。私は安井氏の大ファ ンです。。

◆マスコミに失望
 「あらたにす」や「日経」などにある識者のコラムには、私のような庶民にとって時に違和感のある内容が見られる。その道で成功したあるいはその道に精通 している人の思い(識者)と苦渋の人生を過ごしてきたあるいはその道に門外漢の人々の思い(庶民)には、時に大きな見解の差を生じて当然だと思う。

 その差が大きい時、庶民(私はそのうちの一人と思っている)はその思いをまとめて投稿する。それに耐え るコメントが識者には求められるべきである。

 しかし、投稿内容がコラムに反する意見(あるいは皮肉な見方)の場合は採用されないという経験を2度続 けて味わった。識者の指示による不採用かあるいはそれ以前の記者チェックによる不採用か。

 いずれにしろ、最近の「あらたにす」「日経」ひいてはマスコミ全体に対して大きな失望を感じている。残 念なことである。(2010年)

◆自分勝手に生きる
 老後の生き方に関するエッセイをよく新聞、雑誌等で見かけるが、だいたい、夫婦それぞれ自分なりの生きがいを持ちなさいという話になる。夫婦といえども 元々別人故、自分本位、いいかえると自分勝手な生き方をしろと拡大解釈できる。

 しかし、そうすることで二人はうまくいっているとこれみよがしにTVなどで見せつけられると、つい「ホ ントかー」と叫んでしまう。きっと、時代がそう言わせているんだろう。

 さて、そこでだ??一緒にいるだけでときめいていた二人はどこへ行ってしまったのか。

  不義理は承知で、約束は先延ばし、仕事はさぼり、面倒な付き合いはさけ、自分勝手に生きる。

 淹れたてのコーヒーを手に、カミさんの問いかけを無視して朝の新聞をじっくり読む、天気が良ければ、庭 にでて運動がてらしばしの草むしり、昨日摘んできたシュロの葉で草玩具つくり、近所の公園で売る商品でもある。

 色あせたTシャツを切り刻み布ぞうり編み、時に刃物、ヤスリを使って竹トンボ作りに精を出す、週に一度 の科学館ボランティア、そこでの子供との他愛ない会話、時にひとり公園周りの散歩。

 そして、自分勝手の究極は「ひとり旅」、日本一周自転車の旅、四国歩き遍路旅、海外ホームステイの旅。 自分にとって心地いいひとり時間を作るべく孤軍奮闘している自分がふっと情けなくなる瞬間がある。

 一緒にいるだけでときめていた二人はどこへ行ってしまったのか。

◆痴呆症
 人は必ず死ぬ。苦しんで死に至る人もいれば眠るように死ぬ人もいる。ここで、死んだ状態は意識がない状態であるからして、この生と死の間には必ず意識が 飛ぶ時間があるはずだ。すなわち死ぬ直前、人は無意識状態に陥ると考える。痛くて死ぬ人も、眠るように死ぬ人も、死ぬ直前は無意識(脳機能停止、脳死?) 状態にある。

 この死ぬ前の無意識状態は、人間が苦しまないで死ぬために自然界が与えてくれたありがたい摂理(時間)である。

 この観点から、痴呆症を考えてみよう。痴呆症とは本人の意識が飛んだ状態すなわち、この死ぬ直前の無意識状態が続いている症状と解釈する。そして、私 は、この状態は
決して忌むべき状態ではなくして、その人が安心して死ぬために自然界が人間に与え てくれたありがたい摂理(時間)であると考えている。

 そう、老爺にとって痴呆症とは死に至る前の俗界から解き放たれ、ある意味至福の時間を味わっている状況なのだ。わたしはカミさんに「私はその時を待って いる、早い者勝ち!」とほざいている。

 この自然界が与えてくれた至福の時間を味わいたくないという人もいる。大多数はそのようだ。それなのに、アンチエイジングだの健康食だの、ちまたにあふ れる健康志向って何なのよ。痴呆症とは、この過剰な健康志向に頭脳が追いつかない状態なのである。健康維持のため日々努力している人たちは、まさに痴呆症 予備軍団ではないのか。。

 私は、健康食も健康体操もほとんど興味がない。普通に老い、普通に痴呆症になって、普通に家族に「大」迷惑をかけ、普通に死んでいきたい。

◆好きなことば、気になることば
 安らかに死ぬために修行する
 老人は若々しくしているより、笑っている方がいい
 友人なんていらない、老人は楽しー
 60過ぎたら自分勝手
 敵は自分の中にある
 今を生きる


「曽野綾子氏の著書から自分に都合の良い言葉を抜粋」

 迷惑をかけるのが人間関係の素だ
 乗り越える力は教育にあり
 他人は自分を理解しないと覚悟する
 義務を果たしてこそ人は自由になれる
 「人みな平等」は個性を潰す
 強制はいけないが脆弱を育てるな
 過大評価も過小評価もあるのは当然
 ピースサインなどしてはなるまい
 長所美点を自ら語るな
 迎合になれると人間ダメになる
 望みと現実をごちゃまぜにするな
 他人を信じるな、同じく自分も信じるな
 貧困とはその晩食べるものがないことを指す
 どんなことにも終息の美学がある
 付和雷同よりへそまがりでいよう
 作文能力は一種の武道である
 何事も誰でも裏表があると認める
 エステ、健康体操ばかりでは馬鹿な老人になる
 してもらうだけでは社会の敵
 安全安心な人生などどこにもない

◆パソコン教室いろいろ
「確定申告」
 きょうは生徒さんにインターネットでの確定申告書の作成指導です。私も毎年確定 申告していますが、数年前からインターネットの国税庁、確定申告作成プログラムを使 い始めました。

 手書きの申告書と同様に数値はきちんと入力しなければなりませんが、電卓を叩いて やっていた面倒な計算は自動的にやってくれます。ファイルとして保存できるので、 後からの修正も簡単に出来ます。 計算間違いがないというのは精神衛生上いいですね。

 生徒さんの方は、実際の収入金 額や保険金額等を私の目の前で入力するわけですから、お互いに信頼関係がないと抵抗があると思います。 この生徒さんはすでに延べ200回以上も我が教室に 通ってきているベテラン?さんです。 これまでインターネットを利用して、振り込み手数料が無料という新生銀行の申し込みや、円高なのでドルを買いたいと いうことで、実際に買うのをお手伝いしたこともあ ります。

 また、デジカメの写真をパノラマにしたりといろいろなことにチャレンジしています。 このように 長く教室に通ってきたいただけるということは、教室が信頼されている 証でもあるわけで、その期待を裏切らないように私もがんばっています。

◆「ホームページ作成」
 今までMacの初心者コースでがんばってきた生徒さんが突然「ホームページ、私に も作れるでしょうか?」と聞いてきた。

 ご主人の診療所の科目内容と地 図とが入った簡単なものでいいとのこと。「ええ、 最近のソフトを使えばワープロソフトみたいなもんですから、少し勉強すればでき ますよ。アップロードも うちの教室からできますから、ぜひチャレンジして下さ い。」と答える。

 周りのお医者さんでホームページを持っていない人は少数派らしい。ご主人からその ような話をきいて、パソコンの勉強に通ってきている以上、協力しなければと思われたようだ。後日ご主人に相談しところ「教室の先生に作ってもらいなさ い。」 と言われたとのこと。

 情報をいただいてインターネットの無料サイトから借用したFlashアニメーション のWellcomeページ+2ページ(診 療科目内容と地図)の素朴なページを作りました。 たいそう喜んでいただいて、ホントうれしかったです。

 無料で?、いや少ないですが有料です。申し出た金 額よりさらに+αを上積みし ていただきそれもうれしかったですね。 FlashのアニメーションはYahooで「Flash素材」として検索します。使い方も含 めて丁寧に解説しているサイトがあるので、ホームページ 作成初心者でも十分使う ことができます。

◆「DreamWeaver」
 私の教室は、MachintoshではAppleWoorks、WindowsではWord、Excelを基本とした カリキュラムを用意していますが、時々PhotoshopやIllustrator、Dream Weaver などの使い方を教えて欲しいという方が見えます。

 本格的に勉強してはいないのですが、生徒さんの要求レベルを聞いて何とか対応で きそうだと思えば引受けることにしています。なぜなら、自分のレベルアップにつ ながるからです。

 生徒さんからの質問に答えられない場合は、正直に次回までに勉強しておきますと 答えます。これまで質問には99%次の回までに答えを出してきたつもりです。 今回はDream Weaverでプロの方が作成したホームページを初心者に近いオーナーの 方が内容の修正、追加をしたいという要望です。

 他人が作ったものを解読するのは 難しいですね。 でもこうして新しいことを勉強する機会を与えて下さったことに感謝しなければな りません。 生徒さんには正直に私も一生懸命勉強します(そういうレベル)ということはきちん と説明して納得してもらっています。 もちろん、有料ですから手を抜くことはできません。

「オークション」
 Yahooのオークションを時々利用しています。秋から冬そしてこの春にかけては、 たびたびリンゴを落札しました。
 我が家の朝食はパン、果物+αが定 番ですので、 毎日食べるために相当数を購入します。送料を考えるとたくさん購入しないと損で すが、一度に10kg単位で購入すると送料込みで 3000〜4000円になります。

 この金額 だと1個100円ぐらいになります。近所のスーパーでも1個100円以上しますし、その程度 の金額では味も期 待できません。また、その重さを家まで持ち帰る手間も省けるとい うことで重宝しています。

 オークションでは巷では時々トラブルがあるようですが、 出品者 の出している品物一覧や評価欄をみればほぼ想像がつくと思います。 出品物一覧では関連する商品を継続的に出品しているか、評価欄では最近の落札者の 評価 内容を直接見ることができます。
 リンゴの場合は何度も同じ品物が同じ生産者 から出るので、信用はもちろん味も保証されているので安心。

◆理不尽なバッシング(日経に投稿採用)

 理不尽なバッシング  (西川善文氏の経営者ブログ) 2012/2/23 日本経済新聞
 
 住友銀行時代には経営難に陥った安宅産業の処理に携わるなど若くして頭角を現し、頭取としても財閥を越えて、さくら銀行との合併を断行。その辣腕ぶりか ら「最後のバンカー」の異名を持つ。
 民営化のために日本郵政社長に就いたが、政府の路線転換で辞任を決意した。「怖い上司」と恐れられたが、仕事を離れれば気配りの人。 ご記憶の方も多いだろう。「かんぽの宿」の処分、東京中央郵便局の再開発問題で、麻生政権下の鳩山邦夫総務大臣から理不尽なバッシングを受け、大いに苦労 をさせられた


 
大小にかかわらず、組織に属していると必ず保身のため、足を引っ張る人がいるものです。抵抗勢 力ともいうのでしょうか。そして、何か新しいことにチャレンジすると、結果が悪ければそれみたことかと非難の声をあげ、結果が良ければわがことのように主 張する人たちがいます。
 そんな紆余曲折を経ながら組織は存続、衰退、あるいは発展していくのだと思います。とはいえ、新しいことにチャレンジすることはそれはそれで現場に立つ 人にとってとてもエキサイティングなことです。これまでに体験された、そういうお話をたくさん伺いたいものです。
(本投稿は採用されたけど、本音は、、、後からどうのこうのと他人を批判しても、問題点を指摘しても、所詮「犬の遠吠え」でしょってこと。このレベルの バッシングは職場内で日常的に起きている。問題は「じゃあ、どうすればいいの」っていう提言こそが大切なんじゃないの。こういう「後ろ向きの話(犬の遠吠 え)」ではなく、もっと「前向きの話(チャレンジ)」を聞かせてくださいってこと)

◆老人力(ろうじんりき)を磨く
 老化進行中、物忘れがだんだんひどくなってくる。

 約束事、忘れないためにはメモをする。若ければ明日の待ち合わせ時間などメモしなくてもおぼえている。 しかし、忘れないために常に手帳を手元におき、メモをとる。

 それでもメモを見るのを忘れて、後始末が必要なこともたびたびある。手帳を用意すること、メモをとること、メモ帳を見るのを忘れて、そのあと始末のため に動きまわらなければならないこと。老化することによって、余計な仕事がどんどん増えてくるというのは自然の流れである。

 一方、老化すると、たいてい出不精になり、何事も面倒臭くなってサボりがちになる。これに対して、どん どん増える余計な仕事は、そういう風に体を動かしなさい、頭を働かせなさい、後始末をちゃんとしなさい、という生物学的警告でもある。

 そういう余計な仕事にちゃんとそれなりに対応することは、いわゆる老化現象を少しでも遅らせるために必 要なこと。これを何事にも面倒臭がらずに誠実に対処する対応力、すなわちこれを老人力(ろうじんりき)と定義すれば、心してこれを磨いていくことは重要な ことである。

 老人力(ろうじんりょく)と称してさも老人になって備わってくる摩訶不思議な力みたいな解釈をする方も いらっしゃるが、私は敢えて老人力(ろうじんりき)とへそ曲がりに読んで、かつ、この老人力をへそ曲がりに解釈することにしている。

◆老人力(ろうじんりき)を鍛える
 例えば読みかけの本を2階の寝室に取りに行かねばならない、この時、ついでにあれをこうしてなど 複数の仕事を一緒に片付けてしまおうなどと思わないことにしている。面倒でもひとつづつ仕事をこなす。

 本を取りに行く。まずは、これで一仕事を終える。そういえば今日は天気がいい。2階の風通しを良くするために窓を開けに行く。これでまた一仕事を終え る。あれ、そういえば昨夜やりかけの数独があったのを持ってくるのを忘れてた。またまた、2階の寝室に取りに行く。

 すべて、一度にやれれば(手間が省けて)よかったのにと思うよりも、こうやって何度も2階の寝室と居間 を往復するこ とで、弱りがちな足腰を鍛えることができるのだと思うことにしている。それでなくても運動不足気味、こうして何度2階の寝室と1階の居間を往復しても、全 然悔しいとは思わない。

老人力(ろうじんりき)を鍛える。

◆死から逆算してい生きよ
 インターネット三昧、目に飛び込んできた強烈なことば

 「死から逆算して生きよ」 佐藤 優

 そう遠くはないはず。心したい。そーだよなー。
ーーー
 読売新聞の記者記事から

 「出る杭は打たれる、というけれど、出ない杭は腐る」  五木 寛之
 「能ある鷹は、爪を(隠すな!)磨け」 本田 宗一郎
ーーーーー
 「自分探しより、他人探し」 山本 兼一

 自分より他人を探すべきだ。尊敬できる人、圧倒される人、魅了される人、そういう人を見つけて学び、真似すれば、新しい一歩が力強く踏み出せる。。
(ユーラシア大陸への自分探しの旅を敢行した筆者が語る)
旅してると、自分探しみたいなセリフを平気で言う若者に出会う。ふざけんじゃねーよ。

ーーーーー
日経新聞コラムから

アフガンにあるギリシャ人の古代都市遺跡で碑文が発見されたということば
少年は礼儀を学べ
青年は情熱と格闘せよ
壮年は他者を視野に入れて行動せよ
老人はよき相談相手になれ
以上を全うして悔いなき死を得ん

 壮年まではいい、しかし最近の老人はウンチクしすぎる。黙れ、黙れ!

 「老いを語り、老いを嘆く」のは甘えである:中村 稔
そーなんだよなー。健康自慢、年齢を自慢する年寄りをみると、そーはなるまいと思う
ーーーーー
 「親に死んでほしい」という感情は、その人を苦しめるかもしれない。でも私は、そんな風に思っても構わないのですよ、と伝えたい。: 水村美苗

 終う、終い方、どっちしろ終わなければ(しまわなければ)ならない。

◆あやまらないという文化
 (自分に非があったとしても絶対に)「あやまらないという文化」が世界を席巻していることを知っ た。それが世界の常識ということも齢70年を経て思い知らされた。「悲しい文化」であるが、世界の常識とすれば仕方がない。

 先日のTV、日本で働いている中国人数名のグループの尖閣列島問題での意見聴取があった。デモや襲撃で 建物をこわ し、商品を略奪していることが中国各地で起こっていることに意見を求めても、彼らは愛国心の発露とか言葉を濁すだけで、決して「あれはいけない行動だ」と は言わない。その上、平気で「日本人からはあやまらない、素直でないとよくいわれるんですよ」と冷笑で対応する。

 そうか、彼らの常識は何があっても「あやまらない」ということだったのだ。

 この「あやまらない」中国人は我々日本人に対して「あやまれ」という資格はないんじゃないのか。一部の 中国人は、過 去の歴史を掘り返して日本人は歴史認識が足りない(言い換えれば、あやまれということ」とよくいうけれど、現実、目の前の自分達の破壊、略奪には決して 「あやまらない」のはどうしたことだ。このことに気づかされてから、私はある決心をした

 「歴史は現在の価値観で過去を断罪する事ではなく、過去の人々の考えを知ることだ。」
 「知識がないため、感情に流され短絡的に自国を卑下することがないようにしたいものだ。」
  森 靖喜:岡山学芸館高校:学園長

 私は中国、韓国との過去の歴史的な問題に関して決して「あやまらない」と心に決めた。感情に流されて 「短絡的にあやまるまい」と心に決めた。
ーーーーー

◆尖閣列島問題と日本国憲法第9条と絶対戦争をなくす条件

 尖閣列島問題がらみで国防意識を盛り上げ、改憲への動きが加速している。一旦事が起これば一番危険にさ らされるのは最前線に否応なく立たされる一般国民である。その時、改憲を唱え続ける政治家の方々はどう行動するのか
「防空壕に入ってじっと沈黙を守る」
「戦線の先頭に立って武器を持って闘う」

 東京新聞コラム (映画監督:井筒 和幸):デンマークのフリッツ・フォルム陸軍大佐曰く「これが法律になれば世界から戦争がなくなる」は言い得て妙である。
「戦争の開始後十時間以内に次の各項に該当するものを最下級兵士とし、速やかに最前線に送り、敵の砲火の下に下側すべし、1 国家元首、2 その親族で 16歳に達せる者、3 総理大臣、国務大臣、次官、4 国会議員、ただし戦争反対論者は除く、5 キリスト教、その他の高僧、管長にして戦争に反対せざり し者、以上に加えて夫々の妻、娘、姉妹は看護師として野戦病院に勤務すべし。

改憲を唱える政治家は自ら最下級兵士になる気などさらさらなく、ましてや自分や自分の家族は最前線に立つ はずはないと思っているに違いない。

◆気になる言葉

人はひとりで死ぬしかない。生きるとは、そんな孤独に慣れることなのです :倉本聡:脚本家

放した馬は捕まえられるが、放した言葉は捕まらない:モンゴルの格言
最近お偉方の放言(安陪ぞうり、NHK怪長、後輪関係者)がとまらない。歴史は示している、傲慢が国を滅ぼす。
自分は謙虚に逝きたい

人生に定年はありません
老後も余生もありません
死を迎えるその一瞬まで人生の現役です
人生の現役とは、自らの人生を悔いなく生ききる人のことです
千葉県成田市:篠原鋭一

「不害」相手を傷つけぬことだが、よく考えてみると、善自体が害に変身することがある。善が 刃となるとは何か。善の押しつけである。:太田久紀(愛知県)
”そこらに氾濫するゴミと化した千羽鶴

自分の「サイズ」を広げるために南極大陸レースを走る:須田 将啓
”この「サイズ」ってよく分からない概念だけど、自分もこの「サイズ」を広げるために「一人旅」をしてきたような気がする。これからもよくもわるくもない 一人旅を続けたい。”

「天狗になるな」といってたひとがなる。どんなに注意しても危険は忍び寄る:藤田晋
”病気で亡くなる人もいる、交通事故で亡くなる人も、事件に巻き込まれて死ぬ人もいる。自分がこの歳までそのような危険に遭わなかっただけのこと、幸運以 外の何物でもない。心して生きねばならないと思う。あれ?危険の解釈が違うが、しかし当たらずとも遠からずだと思う。

 長生きすれば役に立たない存在になる。そういう自分たちを抹殺しない価値観が必要です。 山田太一:脚本家

 菜根譚(さいこんたん)前集105
  人の小異を責めず
  人の陰私を発(あば)かず
  人の旧悪を念(おも)わず
3者、以て徳を養うべく、また以て害に遠ざかるべし。

 私たちはどうしても、他人の小過(ちょっとしたあやまち)を、自分でやってしまうのに責め立てる。
 他人に陰私(かくしておきたいこと)を自分だってそっとしておいてもらいたいのに、あばきたてる。
 そして、自分の旧悪をねちねちと憶えていられたら困るのに他人のそれは憶えていて、---あのことを忘れちゃいませんからね、と他人の弱みを握った気分 になる。(東京新聞から)

人を愛する気持ちがあれば、何も怖くない:下館  和巳:シェークスピア・カンパニー主宰

◆新聞、歌

 ニーズに応えるためのロボット開発には否定的です。人助けも金もうけも同列の邪念だと思う。今ある 問題や危険、面倒を解決する手段を基に発想したって、新しい産業にはなり得ない。(超独創的)
 高橋智隆:東大科技センター特任准教授
  ーー賛否は別としてこういう異論(普通じゃない論評)には興味がある。ヨ〜するにわたしへそ曲がり。


ヨーロッパの古い格言
 釘一本が欠けたから、蹄鉄一つが失われ、蹄鉄一つが欠けたから、馬一頭が失われ、馬一頭が欠けたから、一人の騎士が失われ、一人の騎士が欠けたため、一つ の戦に敗北し、一つの戦に負けたため、王国一つが亡くなった。
 誰が誰に対して釘一本の供給者(救世主)になるかわからない。誰が誰に対して、馬一頭を提供する役割を担うかわからない。誰の不在が誰にダメージを及ぼす かわからない。誰の不義理が誰をどう傷つけるかわからない。
 だからこそ、諸国共生でなければ誰もやっては行けないのである。これはとてつもなく難しいことだが、この難しいことに挑む知恵と勇気がなければ、地球経済 は滅びに向かう。
 こんなグローバル時代の生き方を日本国憲法が我々に示してくれている。筆舌に尽くしがたく大事な救世主だ。
 浜矩子:同志社大学大学院ビジネス研究科専門職学位課程教授
ーーこれほど大上段に振りかぶらなくてもいいとは思うが、名のしれた人が言うと少しは影響あると思う。

 周りの人に感謝して生きてきた人は我々スタッフに感謝をして亡くなっていく
周りの人に不平ばっかり言って生きてきた人は、我々に不平をいいながら死んでいく。

しかし、時として今まで不平不満ばかりいってきた人がスタッフに感謝してなくなる例を見るという。
ーーこういうのを後の祭りっていうんだ。気をつけよう
柏木哲夫:淀川キリスト教病院名誉ホスピス長、阪大名誉教授

思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから
 マザーテレサの言葉(らしい。そうかもそうでないかも)

好きな歌(詩)抜粋

 きらびやかな夢で 縛りつけたい

 ベッドの中で魚になる

 届かぬ思いが 夜空に揺れる

 あとかたもなくなく流されて行く愛のかたち

 空と大地がふれあう彼方

 私を置き去りに 過ぎてゆく白い朝

 枯れ葉ひとつの重さもない命

 ハンドバッグの留め金が外れて、化粧がちらばる

 他人など 信じない 自分たちだけだった あとは どうでもかまわない

 名立たるものを追って、輝くものを追って 人は氷ばかりつかむ

===
◆ ビギナーズラックを忘れない
 自分にラックなんてあったかなー。まっ常に謙虚であれ、おごり高ぶるなってことでしょう。思い出す私の「おごり高ぶり」は大学受験、現役合格したこと。これで両親に恩返しできたと勘違いした。
◆ 人とつるまず、「孤」を知ること
 長じてますます感じる。しかし、周りがうるさいからの「孤」であって、ほんとに無視された状態の「孤」はとてもつらいはず。息子、配偶者がいてこその「孤」のここちよさに感謝
◆ 理不尽こそ人を育てる

 当時はとてもつらかった。でもこの歳になって自分の行き方にふんぎりがついた
◆ 情報より情緒を身につけよ
 もう、勉強する気はない。自由気ままに生きて、逝きたい
◆ 「9勝6敗」を狙え
 勝負事はもうやらないといいつつ、株や金をやっている。将来何が起こるかわからないから。体感の売り買いでほどほど状態だとおもう
◆ 自分は自分で打ち止め
 だったら、こんな本出さなきゃあいいと思う。老人になるとみんなウンチクしたくなるんでしょう。自分がこうしてコメントしてるのもウンチクだよね、深く反省だ
◆ 誰でも事情を抱えて生きている
 それなりに他人に言えないことはあるのは当然
◆ 自分のフォームで流れを読む
 「60過ぎたら、自分勝手」の論理で生きていく。流れはできるだけ避け、無視そして「孤」
◆ 虚しく往くから実ちて帰れる
 カッコよすぎていただけない

◆ 安心・安全なんてあるものか
 痛烈に感じる。よくこの年まで大きな交通事故、自然災害にも合わず生き延びてきた。
◆ 恋愛は出会い頭、セックスという「小さな死」
 よくわからないな
◆ 差し伸べた手にしかブドウは落ちない
 情は人のためならず、の言い換えか。うんちくでもなんでもない。
 無頼のススメ:伊集院静

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がん哲学外来:樋野興夫 抜粋

明日この世を去るとしても、今日の花に水をあげなさい
  死ぬときは何をする気もなくなるだろー。その時はこの言葉を思い出すことにする

自分の命より大切なものがある
  そのとおり

どんなに短い人生でもどんなに長い人生でも、生きている限り一人ひとりに役割がある
  どんな役割かわからないけど、そ〜でも考えないと生きてる意味ないから

自分でなくてもできることは人に任せて自分しかできないことに専念する
  そんときは、そうするっきゃあないでしょ。自分勝手でいきます。

ビリにはビリの役割がある
  ビリがあるからトップがあるわけで

すべての人に贈り物を残す必要はありません 最後まであなたに関心を持ち、最後まで寄り添い、見捨てなかった人だけに残せれば十分です
 もちろんです。家族、友人に、見捨てられたとしたら、それも人徳です。

命は自分のものではなく、天から与えられたもの 与えられたものは大切に扱わなければならず、いずれ返すときがやってきます
  そ〜思えば気も楽になる

自分のことより他人のことを思う、自分より家族を大事にする、自分より困っている人を助けてあげる
  ヨ〜するに気ばたらきの精神。この歳だもん、、常日頃、心がけている。

大体のことは放っておけばいい
  そんときはそーするしか無いわけだし、

何をするかより、どうあるかが大事
  騒がない、泣かない、は当たり前、無我の境地でありたい

出世から外れたっていい、窓際だっていい、仕事を干されたっていい 仕事は衣食住に足ればいい、経済的に自立してればいい
  それはこの歳だからそう思えるわけで、若かりし頃はそれなりに野心はあった。それが普通でしょ

人は人によって癒される、 最後は人の力が必要になる 人は温かいものを求めている
  皮肉な見方をすれば(私の偏見)、老人が犬猫に癒しを求めるのは周りの人が冷たいからにほかならない。いい大人が、若者が、犬猫を溺愛するのを見ると悲しくなる。人は人に癒やされる。ボランティアという言葉は好きではないが、犬猫を可愛がる前にするべきことを考えて欲しい。